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わだ さんぞう
和田三造肖像(朝来市提供)
和田三造作品「南風」(朝来市提供)
1868年(明治元)、日本初の官営鉱山となった生野鉱山には、国内外から有能な人物が集められた。人や物の交流があり、最先端の文化が持ち込まれた鉱山町からは、文化人も巣立っていった。
朝来市生野町出身の洋画家。1900年(明治33)、中学校を中退して、白馬会洋画研究所に入り、黒田くろだ清輝せいきに師事。東京美術学校卒業後、文部省派遣留学生として渡欧し、絵画研究の他、工芸図案を学ぶ。帰国後は日本標準色協会を設立するなど色彩研究にも多くの業績を遺し、1958年(昭和33)文化功労者に選ばれた。代表作は「南風」「興亜曼荼羅」など。また、1953年(昭和28)の映画『地獄門』では色彩デザインを指導。この作品で、翌年の第27回アカデミー賞において衣裳デザイン賞を受賞した。
1868年(明治元)、日本初の官営鉱山となった生野鉱山には、国内外から有能な人物が集められた。人や物の交流があり、最先端の文化が持ち込まれた鉱山町からは、文化人も巣立っていった。
朝来市生野町出身の洋画家。1900年(明治33)、中学校を中退して、白馬会洋画研究所に入り、黒田清輝に師事。東京美術学校卒業後、文部省派遣留学生として渡欧し、絵画研究の他、工芸図案を学ぶ。帰国後は日本標準色協会を設立するなど色彩研究にも多くの業績を遺し、1958年(昭和33)文化功労者に選ばれた。代表作は「南風」「興亜曼荼羅」など。また、1953年(昭和28)の映画『地獄門』では色彩デザインを指導。この作品で、翌年の第27回アカデミー賞において衣裳デザイン賞を受賞した。