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あおやま くまじ
青山熊治(朝来市提供)
青山熊治作品「金仏」(朝来市提供)
1868年(明治元)、日本初の官営鉱山となった生野鉱山には、国内外から有能な人物が集められた。人や物の交流があり、最先端の文化が持ち込まれた鉱山町からは、文化人も巣立っていった。
朝来市生野町出身の洋画家。早くから神戸や大阪で働き、のちに上京。苦学して東京美術学校西洋画科に学び、「老坑夫ろうこうふ」「金仏かなぶつ」などを描いて注目された。1914年(大正3)〜1922年(大正11)までヨーロッパに留学し、帰国後、第7回帝展で「高原」が特選を受け、さらなる活躍が期待されたが、46歳で急逝した。
1868年(明治元)、日本初の官営鉱山となった生野鉱山には、国内外から有能な人物が集められた。人や物の交流があり、最先端の文化が持ち込まれた鉱山町からは、文化人も巣立っていった。
朝来市生野町出身の洋画家。早くから神戸や大阪で働き、のちに上京。苦学して東京美術学校西洋画科に学び、「老坑夫」「金仏」などを描いて注目された。1914年(大正3)〜1922年(大正11)までヨーロッパに留学し、帰国後、第7回帝展で「高原」が特選を受け、さらなる活躍が期待されたが、46歳で急逝した。