カテゴリー: # 暮らし # 食 # 但馬全域
そば
出石皿そば
但馬地域は山間部が多く、耕地が少なくて、主食となる米の収穫が少なかった。現在のように米だけで炊いたごはんは、祭りか正月、客が来た時くらいしか食べられなかった。普段は麦ごはんか、小麦粉でつくった自家製のうどんなど。 そばは、耐寒性に富んで、やせた土地に適していたので、田んぼや畑ではつくられず、山焼きをして、軽く開墾して種をまき、秋に収穫された。自然まかせであったので、収量は少なかった。 そば粉を隣り近所の人が持ち寄って、そばを打ったり、そばがきをつくったりして、皆で食べた。そばは夏にも、秋にも栽培できたので、米の作柄をみながら、飢饉ききんの際の食糧ともなっていた。 戦後、飽食時代になり、昔食べていたものの中で、そばが見直され、栽培が盛んになった。但馬各地には出石皿そばに代表されるほか、町おこしの一環として、地元産のそば粉を利用したそば屋がある。
但馬地域は山間部が多く、耕地が少なくて、主食となる米の収穫が少なかった。現在のように米だけで炊いたごはんは、祭りか正月、客が来た時くらいしか食べられなかった。普段は麦ごはんか、小麦粉でつくった自家製のうどんなど。
そばは、耐寒性に富んで、やせた土地に適していたので、田んぼや畑ではつくられず、山焼きをして、軽く開墾して種をまき、秋に収穫された。自然まかせであったので、収量は少なかった。
そば粉を隣り近所の人が持ち寄って、そばを打ったり、そばがきをつくったりして、皆で食べた。そばは夏にも、秋にも栽培できたので、米の作柄をみながら、飢饉の際の食糧ともなっていた。
戦後、飽食時代になり、昔食べていたものの中で、そばが見直され、栽培が盛んになった。但馬各地には出石皿そばに代表されるほか、町おこしの一環として、地元産のそば粉を利用したそば屋がある。