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 中世は朝廷や貴族にかわり、武士が台頭した時代である。平安時代末期には平家が政治の実権を握り、但馬国も平家知行ちぎょう国の時代が続く。その後、源頼朝が平家打倒の兵をあげ、1185年(元暦2)、壇ノ浦だんのうらの戦いにより平家は滅亡する。
 但馬各地には平家の落人おちうど伝説が数多く残る。香美町香住区の御崎みさきでは、平家復興を願う「百手ももての儀式」が現在も行われている。また、豊岡市気比けいに平家落人・越中次郎兵衛盛継えっちゅうじろうびょうえもりつぐが潜伏したと言うのは、数多い伝説の中の史実と言われている。
 平家滅亡後、頼朝は反旗をひるがえした義経の追捕と言う大義名分で、全国に守護しゅご地頭じとうを置いた。但馬守護には、頼朝の信任が厚い安達親長あだちちかながを任じた。
 こうして、但馬も鎌倉幕府を中心とした体制の中に組み込まれたのである。
 1221年(承久3)、幕府の実権が北条氏に移った頃、後鳥羽上皇らによる承久じょうきゅうの変が勃発する。但馬守護の安達親長は上皇方に味方、これに対して幕府は、当時、但馬国太田荘(豊岡市但東町)を領していた太田昌明を新たに守護職に任じた。
 争乱は幕府方が勝利するところとなり、上皇の皇子である雅成親王まさなりしんのうは但馬に流された。豊岡市高屋たかやには、親王の墓所が今も残されている。
 以後、太田氏による但馬守護が110年あまり続いた。1285年(弘安8)には、太田政頼が幕府に土地台帳である「但馬国太田文おおたぶみ」を注進。中世但馬の所領関係を知る貴重な史料となっている。
 その後、鎌倉幕府が滅ぶと、後醍醐ごだいご天皇が親政を行うが、足利尊氏あしかがたかうじの離反にあい、やがて朝廷は南朝・北朝に分かれ、南北朝の動乱が起こる。但馬では、各地で南軍・北軍入り乱れての攻防が繰り広げられたが、1363年(貞治2)、南軍側にあった山名やまな時氏ときうじが北軍に降伏。
 後に、山名氏の室町幕府に対する忠誠が認められ、時氏ときうじの長男・師義もろよしに但馬守護職が与えられた。
 山名一族はその後も目覚ましい活躍によって守護職を増やし、その領国は全国の6分の1にも及び、六分ろくぶん一殿いちどのと呼ばれるほど隆盛を誇った。途中、足利義満の時代に勢力を削られたが、持豊もちとよ宗全そうぜん)の代になると、再び力を取り戻し、幕府に多大な影響力をふるった。
 この時代、山名氏は社寺の保護に尽力し、大明寺だいみょうじ(朝来市生野町)・円通寺えんつうじ(豊岡市竹野町)を始め、数々の社寺に寺社領を寄進して、その興隆に寄与している。
 1467年(応仁元)に始まった応仁おうにんの乱以後、山名氏は次第にその勢力を失っていく。
 戦国時代には、織田信長の家臣・羽柴はしば秀吉(豊臣秀吉)による侵攻を受け、わずか2週間あまりで17、18とも言われる城が落とされ、資金源であった生野銀山も奪われた。
 但馬守護・山名祐豊やまなとよすけは、本拠であった此隅山このすみやま(豊岡市出石いずし町)を脱出して、大坂・堺に逃れる。祐豊は一旦許されて出石に戻るが、秀吉の第2次但馬攻めで、有子山ありこやま(豊岡市出石町)を攻略され、ここに名門・山名氏嫡流は但馬から滅亡した。山名氏滅亡後の但馬は、織豊政権の支配下に置かれることになる。