カテゴリー: # 古墳・遺跡 # 城跡 # 豊岡市 # 出石エリア
やまなしじょうあと
此隅山城跡最高所からの展望(2019ふるさと特派員撮影)
此隅山城跡見学路入口(2019ふるさと特派員撮影)
有子山城跡(2018ふるさと特派員撮影)
有子山城跡からの展望(2019ふるさと特派員撮影)
山名氏は清和源氏の出で、室町時代、足利尊氏あしかがたかうじに従った山名時氏が、その功績によって山陰地方の守護大名となった。山名一族は全国66カ国の内、11カ国を支配するほどの巨大な勢力を持ち、六分の一殿ろくぶんのいちどのと呼ばれるようになった。 持豊もちとよ(宗全そうぜん)の代になると、1467年(応仁元)、天下を二分する応仁の乱を起こした。宗全は赤ら顔で太っ腹、毘沙門天の化身、赤入道といわれ、幕府に多大な影響力を及ぼした人物である。 南北朝時代末期から15世紀にかけて、山名氏は九日市ここのかいち(豊岡市)に守護所を置いたが、その後、衰退をたどる。被官・垣屋かきや氏の台頭によって、直轄領出石郡西部にある此隅山このすみやま城を本拠地とした。1569年(永禄12)、織田信長に命じられた羽柴秀吉は2万の兵で但馬を攻め、わずか2週間あまりで此隅山城を含む17とも18ともいわれる城を落としている。 此隅山城落城後、山名祐豊すけとよは標高321mの急峻な山、有子山ありこやま山頂に城を築いた。背後の南は出石川、北面には東より流れる谷山川を濠に、北は盆地が開け、豊岡・城崎まで一望できる要害の地。しかし、1580年(天正8)、羽柴秀吉軍によって、再び但馬攻めにあい、有子山城はあえなく落城の運命をたどる。但馬から山名氏嫡流は滅び、現在、有子山城は後に築かれた石垣を残すのみとなった。
山名氏は清和源氏の出で、室町時代、足利尊氏に従った山名時氏が、その功績によって山陰地方の守護大名となった。山名一族は全国66カ国の内、11カ国を支配するほどの巨大な勢力を持ち、六分の一殿と呼ばれるようになった。
持豊(宗全)の代になると、1467年(応仁元)、天下を二分する応仁の乱を起こした。宗全は赤ら顔で太っ腹、毘沙門天の化身、赤入道といわれ、幕府に多大な影響力を及ぼした人物である。
南北朝時代末期から15世紀にかけて、山名氏は九日市(豊岡市)に守護所を置いたが、その後、衰退をたどる。被官・垣屋氏の台頭によって、直轄領出石郡西部にある此隅山城を本拠地とした。1569年(永禄12)、織田信長に命じられた羽柴秀吉は2万の兵で但馬を攻め、わずか2週間あまりで此隅山城を含む17とも18ともいわれる城を落としている。
此隅山城落城後、山名祐豊は標高321mの急峻な山、有子山山頂に城を築いた。背後の南は出石川、北面には東より流れる谷山川を濠に、北は盆地が開け、豊岡・城崎まで一望できる要害の地。しかし、1580年(天正8)、羽柴秀吉軍によって、再び但馬攻めにあい、有子山城はあえなく落城の運命をたどる。但馬から山名氏嫡流は滅び、現在、有子山城は後に築かれた石垣を残すのみとなった。