カテゴリー: # 古墳・遺跡 # 城跡 # 豊岡市 # 豊岡エリア
やまなししゅごしょあと
妙経寺境内(2020協会撮影)
日真上人産湯井(2020協会撮影)
但馬守護・山名氏は、南北朝末期から15世紀まで但馬国の守護所を豊岡市九日市ここのかいちに置いた。東側の円山川を外濠に見立て、西側の戸辺羅とべら山の嶺々に城を築き、中心(九日市上町)の自然堤防台地を御屋敷が占める防御態勢であった。1471年(文明3)の山名七郎や奈佐太郎勢の攻撃に反攻を加えている。1454年(享徳3)から4年間、山名宗全やまなそうぜんは将軍足利義政あしかがよしまさの怒りに触れて、当地に退居。この間に備後国被官・山内泰通に安堵状を発している。 御屋敷内には一族の日真上人にっしんしょうにんの産湯井が残り、山名大明神祠もある。外縁部には山名氏菩提寺の系譜を引き、日真上人が改名した法華宗妙経寺が現存する。応仁の乱後、山名氏の勢威は急速に衰え、被官・垣屋かきや氏との確執から直轄領出石郡西部へ退くことになった。
但馬守護・山名氏は、南北朝末期から15世紀まで但馬国の守護所を豊岡市九日市に置いた。東側の円山川を外濠に見立て、西側の戸辺羅山の嶺々に城を築き、中心(九日市上町)の自然堤防台地を御屋敷が占める防御態勢であった。1471年(文明3)の山名七郎や奈佐太郎勢の攻撃に反攻を加えている。1454年(享徳3)から4年間、山名宗全は将軍足利義政の怒りに触れて、当地に退居。この間に備後国被官・山内泰通に安堵状を発している。
御屋敷内には一族の日真上人の産湯井が残り、山名大明神祠もある。外縁部には山名氏菩提寺の系譜を引き、日真上人が改名した法華宗妙経寺が現存する。応仁の乱後、山名氏の勢威は急速に衰え、被官・垣屋氏との確執から直轄領出石郡西部へ退くことになった。