カテゴリー: # 歴史 # 歴史(古代〜現代) # 但馬全域
官軍に恭順の姿勢を示した但馬の諸藩は、1869年(明治2)版籍を朝廷に奉還した。次いで1871年(明治4)には廃藩置県が断行され、但馬はすでに県になっていた久美浜くみはま・生野いくのに続いて豊岡とよおか・出石いずし・村岡むらおかが県となった。しかし、同年11月には、但馬たじま・丹後たんご・丹波たんば(氷上ひかみ・多紀たき・天田あまだ三郡)を管轄する新しい豊岡県とよおかけんが誕生する。 県庁は元の豊岡藩邸を取り崩して、元久美浜県庁舎が移された。豊岡は県庁所在地となり、裁判所・病院・警察署などが設置され、以後但馬の中心都市として発展する。この豊岡県は5年間続いた後、1876年(明治9)、兵庫県と京都府に分割・合併され、現在の兵庫県が成立するに至った。 また、1889年(明治22)の市町村制、1896年(明治29)の郡制の施行により、城崎きのさき・出石いずし・美方みかた・養父やぶ・朝来あさごの5郡66町村に整理統合され、地方行政の近代化が進んだ。 一方、産業の近代化では、生野鉱山の開発が盛んに行われた。日本初の官営鉱山となり、フランスから技師を呼び寄せ、洋式技術を導入。外国人技師たちは産業機械や燃料となる石炭、資材などを運んだ近代的道路「生野鉱山寮馬車道(生野〜姫路・飾磨しかま)」など、生活面での近代化にも寄与している。 他の産業では、製糸業があげられる。元来、養蚕ようさんが盛んだった但馬では、生糸の海外需要が高まる中で急成長を遂げた。旧出石郡赤花あかばな村(豊岡市但東町)の橋本龍一が洋式の機械製糸を始めると、各地で製糸機械が導入され、隆盛を極める。 農家では養蚕が重要な収入源となり、母屋の2階・3階を蚕室として飼育量を増やした。養蚕が盛んだった養父市には、現在も3階建て養蚕農家住宅が残されている。 また、この頃は明治から戦後までの交通輸送の主役、鉄道の建設も行われた。全国で鉄道が敷設される中、但馬では1906年(明治39)、播但ばんたん線が全線開通。そして、1912年(明治45)、山陰線の京都〜出雲間が全線開通した。
官軍に恭順の姿勢を示した但馬の諸藩は、1869年(明治2)版籍を朝廷に奉還した。次いで1871年(明治4)には廃藩置県が断行され、但馬はすでに県になっていた久美浜・生野に続いて豊岡・出石・村岡が県となった。しかし、同年11月には、但馬・丹後・丹波(氷上・多紀・天田三郡)を管轄する新しい豊岡県が誕生する。
県庁は元の豊岡藩邸を取り崩して、元久美浜県庁舎が移された。豊岡は県庁所在地となり、裁判所・病院・警察署などが設置され、以後但馬の中心都市として発展する。この豊岡県は5年間続いた後、1876年(明治9)、兵庫県と京都府に分割・合併され、現在の兵庫県が成立するに至った。
また、1889年(明治22)の市町村制、1896年(明治29)の郡制の施行により、城崎・出石・美方・養父・朝来の5郡66町村に整理統合され、地方行政の近代化が進んだ。
一方、産業の近代化では、生野鉱山の開発が盛んに行われた。日本初の官営鉱山となり、フランスから技師を呼び寄せ、洋式技術を導入。外国人技師たちは産業機械や燃料となる石炭、資材などを運んだ近代的道路「生野鉱山寮馬車道(生野〜姫路・飾磨)」など、生活面での近代化にも寄与している。
他の産業では、製糸業があげられる。元来、養蚕が盛んだった但馬では、生糸の海外需要が高まる中で急成長を遂げた。旧出石郡赤花村(豊岡市但東町)の橋本龍一が洋式の機械製糸を始めると、各地で製糸機械が導入され、隆盛を極める。
農家では養蚕が重要な収入源となり、母屋の2階・3階を蚕室として飼育量を増やした。養蚕が盛んだった養父市には、現在も3階建て養蚕農家住宅が残されている。
また、この頃は明治から戦後までの交通輸送の主役、鉄道の建設も行われた。全国で鉄道が敷設される中、但馬では1906年(明治39)、播但線が全線開通。そして、1912年(明治45)、山陰線の京都〜出雲間が全線開通した。