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あさくら もりあき
朝倉盛明肖像(朝来市提供)
盛明橋・銀の馬車道(朝来市提供)
朝倉盛明自宅正門を移築した生野書院(2020ふるさと特派員撮影)
1868年(明治元)、日本初の官営鉱山となった生野鉱山には、国内外から有能な人物が集められた。人や物の交流があり、最先端の文化が持ち込まれた鉱山町からは、文化人も巣立っていった。
元は田中静吾といい、薩摩藩出身。イギリスやフランスに留学し、語学や鉱山学を学ぶ。御雇おやとい外国人のフランス人技師・コワニエの通訳として生野へ赴任。生野鉱山の近代化や生野鉱山寮馬車道(銀の馬車道)の建設に尽力した。その後、宮内省御料局理事となり生野支庁長を務めた。口銀谷くちがなや地区の市川いちかわに架かる橋は「盛明橋」と名付けられている。
1868年(明治元)、日本初の官営鉱山となった生野鉱山には、国内外から有能な人物が集められた。人や物の交流があり、最先端の文化が持ち込まれた鉱山町からは、文化人も巣立っていった。
元は田中静吾といい、薩摩藩出身。イギリスやフランスに留学し、語学や鉱山学を学ぶ。御雇外国人のフランス人技師・コワニエの通訳として生野へ赴任。生野鉱山の近代化や生野鉱山寮馬車道(銀の馬車道)の建設に尽力した。その後、宮内省御料局理事となり生野支庁長を務めた。口銀谷地区の市川に架かる橋は「盛明橋」と名付けられている。