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 秀吉による天下統一後、但馬は出石に前野まえの氏、豊岡に宮部みやべ氏、竹田に赤松あかまつ氏、八木に別所べっしょ氏が入り、それぞれに城下町が形成される。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦い以後は竹田・八木の2城は廃城となった。
 江戸時代になると、但馬の代表的な鉱山である生野いくの銀山明延あけのべ銅山中瀬なかぜ金山の但馬3山の開発が進められた。生野銀山は幕府の直轄として、本格的な採掘が始められ、1705年(宝永2)には、「御所務山ごしょむやま」という間歩まぶ(坑道)に対する最高位の称号が与えられるなど、繁栄を極めた。江戸幕府の蔵に銀を納めるために、馬66頭も使って運んだという記録も残っている。
 江戸中期になると、産業の発達がみられる。但馬沿岸の港は、各地の産物を運ぶ北前船(当時、但馬では廻船と呼んでいた)の寄港地として栄えた。但馬の中でも大型の船をつくり、鳥取藩の廻米かいまいを輸送する商人も現れたが、主役となったのは各港の中・小廻船であった。
 1847年(弘化4)、但馬の港から久美浜代官所に免許の申請をしたのは、計169そう(船頭・水主計524人)で、この時点での但馬の船数が推定される。竹野港が突出して多く、56艘と全体の3分の1を占める。諸寄もろよせ港はこの頃、風待ちの港として諸国の船でにぎわった。
 廻船にともなう遺構には、日和山ひよりやまや船を繋留けいりゅうした棒杭、岩のくり穴などがある。また、船絵馬・船手形・客船帳などの史料も各地で保管されている。
 江戸時代後期には、藩の奨励により各地で独自の産業が発展した。豊岡の柳行李やなぎごうり出石焼をはじめ、但馬牛の飼育、養蚕ようさん業の他、二方ふたかた郡(新温泉町)から美含みくみ郡(豊岡市竹野町・香美町)にかけての山間部では砂鉄を原料にした製鉄も発達した。
 しかしながら、江戸時代後期における但馬各藩の財政悪化は厳しく、その立て直しに四苦八苦する。そんな中、1835年(天保6)、出石藩で仙石騒動せんごくそうどうが起こった。筆頭家老・仙石左京の革新的な藩財政改革に反対する守旧派との対立が騒動を招き、藩は所領を3万石に減封げんぷうされた。これは江戸時代の三大お家騒動のひとつに数えられている。
 やがて、幕末期に入ると、外国から開国要求を受け入れた幕府を支持する佐幕さばく派と、それに反対する尊皇攘夷そんのうじょうい派の対立が深まり、国政は乱れていった。但馬でも海岸防備の関心が高まり、1843年(天保14)には豊岡藩が、津居山・瀬戸の山上に砲台を築き、農兵隊を組織した。1863年(文久3)には、尊皇攘夷を掲げた平野国臣くにおみらが生野代官所を占拠した「生野の変(生野義挙)」が起こる。この事件には但馬の尊皇攘夷派たちも多く関わったが、庄屋や農民たちの離反によりあえなく鎮圧された。しかし、全国に先駆けて倒幕の口火を切ったという意義は大きい。
 また、江戸後期は教育熱が高まった時期でもあり、出石藩の弘道館こうどうかん、豊岡藩の稽古堂けいこどう、村岡山名領の明倫館めいりんかんといった藩校や、池田いけだ草庵そうあん青谿書院せいけいしょいんに代表される私塾が開設された。ここから後の明治維新に貢献する若者が数多く輩出された。
 1867年(慶応3)、江戸幕府が朝廷に政権を返上し、翌年、鳥羽伏見の戦いで官軍が旧幕府軍を破ると、政情は変転する。西園寺公望さいおんじきんもちが山陰道鎮撫使ちんぶしとして、山陰道の武力制圧に乗り出すと、但馬各藩は官軍に降り、明治維新へと進んでいく。